画家の歩み

呉天華画伯自画像
呉天華画伯自画像

画家 呉天華

覚醒

 藤島武二、安井曽太郎に師事した後、戦後の混乱も落ち着きを取り戻し、良質の画材がようやく入手できるようになると、1950年代にはモデルを使って裸婦など人物画を無我夢中で描き、60年代になると、杏の里、更埴市の杏の花の風景に魅了されたのをきっかけに風景画に熱中しました。また、中国陶器、赤絵や染付の壺が師となり、友となり自身の中の中国人の血潮、精神に気付かされて、静物画の制作に覚醒したようです。セザンヌ、マティスに傾倒し、マティスの赤、中国の赤が自身の中で昇華され色彩に目覚めたのです。「美しい色彩と言うのは色そのもので無くその色に潜んでいる心の輝きである。美しい色彩は精神の美と光と空間と物の質感、描く対象を含んでいなければならない」と結論付けました。 そして最晩年(1984年~87年3月)、作家自身が思い描いていた理想の色調に到達したのではないかと思われます。意思と情熱と行為の三位一体を実践したのです。留日半世紀記念個展(1974年4月、東京・銀座の資生堂ギャラリー)の案内状に「願わくば、地平線上にかかる真紅の夕陽である様に」との言葉を残しています。

父親像

 多くの遺作を目の前にして、雑念を払い、亡き父、呉天華を想うと、年少の頃の私とはかなり異なる気持ちになっていることに気が付きます。年少の頃は父の芸術に対する思いが全く理解することが出来ず、世間の一般の父親像とは全く異なる父親に対し、畏怖の念を抱き続けておりました。全ての面で妥協を許さない厳格な人であり、また家族にも一切、泣き言や嘆きなどを発しない強い人でした。少しでも本人の意に沿わないことがあると激怒し、家族は身の危険を感ずることさえありました。幼い子供達は父の怒りが収まるのを待つしか術がありませんでした。

 今思えば父の家族に対する愛も皆無であったわけではないように思われます。ただただ何事にも妥協をすることの出来ない父からすれば、きっと子供達にも高い望みを求めていたのでしょう。

事業家

 父は台北の商科学校から最高学府のある東京で学ぶ為に、両親に知らせることなく単身で台湾出身の東京在住の知人を頼り上京、学業資金は元より生活資金は無く当時の苦学生と同様に新聞配達などで糧を得ていました。東京での生活は困難を極めたものと聞いております。

 結核で倒れる同僚を見て、学業を成就するには何らかの安定した資金を得る必要があると考え、当時、国内では誰にも見向きもされない高級中華食材「豚と鶏の乾燥腱」の原料である腱を集め、乾燥した上、台湾への輸出を行い、生活と学業の為の資金を得ました。

 また軍国主義の風潮が社会を取り巻き、戦争の機運が高まる中、バナナを当時の台湾にある煙草の製造用の乾燥機を活用して高品質の乾燥バナナに加工、輸入、販売し、十分な資金を得ることが出来ました。

 これらは生活と学業だけで無く、台湾に残した妹を呼び寄せ大学に通わすのに十分なものでした。乾燥バナナは東京・池袋の武蔵野デパート(現西武池袋本店)向けに大量に販売しました。

 先の大戦の後半では連合軍による潜水艦の出没で輸出入が儘ならぬ事態になり再び生活に困窮する事態となり、当時の多くの人々と同様に物品の交換など買出しなどで食い繋ぎました。

 戦後、台湾からの砂糖を入手、「無名堂」(和菓子屋+甘味処)を池袋と新宿に出店致しました。遺品の中には当時の看板や和菓子職人が使用した道具やショーケース、器などがあります。

 父のことを知る方々から「画家は商才があった」とお聞きしますが、あくまでも画業を成就する為の手段としての資金集めでした。父は事業が成功する最中、長女、翠美との死別を契機にして一切の事業から身を引き、画業に専念することを決断しました。

 

 

 

練馬アトリエ村

 画家は先の大戦に出兵する親友から依頼され、その借り家を出兵から帰る間、預かり一時的な生活と仕事の場としました。その親友は戦場から帰らぬ人となり、その後、所有者から求められ画家は四軒の平屋のアトリエを入手致しました。

 当時の練馬にはアトリエが点在しておりアトリエ村が形成されておりました。それらは天井が無く北側斜め屋根にはすり硝子の窓がはめ込まれており、日中安定した光の中での創作を可能とするものでした。また手押しポンプの井戸がある時代でした。隣の家には防空壕もありました。

 戦争の最中、練馬には多くの画家、彫刻家、工芸家などの芸術家が住んでおりました。それら大多数の芸術家は食べるに事欠く、とても貧乏な芸術家の集まりでした。よく近隣の絵描き、工芸家、彫刻家が家に出入りしていたことを思い出します。

 練馬アトリエ村の一角が画家の創作の場であり妻との生活の場でもあったのです。後に家族の生活の場となりました。当時のアトリエ兼住居は東京都練馬区豊玉北4-25にありました。

 これら練馬アトリエ村のことは現在、長野県上田市にある「無言館」の史料の中に記載されています。 無言館は先の戦争で若くして亡くなった画学生たちの生命の輝きを今に伝えています。父もその時代に生きた画家の一人でした。

自然を愛する

 1964年に画業の拠点を東京都練馬区豊玉北から現在の「ギャラリー呉天華」がある同区桜台六丁目5-14に移しました。

 芸術を究めることに全精力を注ぎ画を描く傍ら、絵筆を置いて、心の安らぎを求め庭の造成や手入れをすることに時間を割いていました。 

 愛知県のバラ専門の苗育成業者から40種類を超える苗を購入、育成し画材に活用しておりました。露天掘りの池を造り、掘り出した土で小山を築き、草木、石を配し、池には鯉を放ち、葦原を造り、夏には外部の環境と遮断された環境を造り出しました。430坪の庭には少なくても28種類もの樹木が植えられていたことが出入りの植木屋の請求書などから窺えます。望郷の念に駆られて台湾からジャスミン、胡蝶蘭を取り寄せ、また東洋蘭も栽培しておりました。庭には群馬県鬼石の石屋が持ち込んだ沢山の石があり、一時はそれらの多さから石屋や植木屋に間違えられることもありました。池には清水が湧き、ザリガニ、蛙、沼蟹ややごなどの小動物や水生昆虫が多数生息しておりました。時折、白鷺、鴨、翡翠などの飛来も見受けられました。

 東京・大田区雪ヶ谷から移築したお気に入りの純江戸数寄屋造りの家屋に居住し、周囲は豊富な自然味溢れる環境下で創作活動をしておりました。家屋は伊勢神宮、熱田神宮、日光東照宮から宮内省(当時)経由で寄進された銘木をふんだんに使い、燻し銀の三州瓦には桐の紋が施されています。

自然は我に絶えず感動と新鮮、情熱、勇気、生命を与えられ、我が頭脳を導き、脳は目を通して確かめつつ己が手を導き描く。

豊かな頭脳は豊かに見えるし、貧しければ貧しく、賎しければ賎しく見える。

自然の実体とその美に肉薄し、更により恒久的で、堅固で美しい画を描きたい。

                     (留日半世紀記念個展案内状より) 

 

 

ギャラリー呉天華

176-0002

東京都練馬区桜台6-5-14

パークハイム桜台1F

☎03 6767 2446

http://gotenka1.jimdo.com/

 

東京メトロ

有楽町線、副都心線 氷川台駅

1番出口徒歩4分